1975年、灼熱のバンコク。お金・美貌・愛に不自由なく暮らし、“愛されること”を求めて生きてきた沓子は、夢に向かって真っすぐ生きるエリートビジネスマン豊と出逢う。たちまち魅かれ合い、熱帯の夜に溺れていくふたり。しかし、豊は日本に光子という婚約者がおり、結婚を目前に控えていた。
愛することこそが本当の愛だと気づいた沓子は、かなわぬ恋とわかっていながらも・・・
引用:Amazon Prime Video 作品紹介ページ より
2択の質問に答えられるか
なんのきっかけで手に取ったのかまるで覚えていないし、ストーリーもそれほどはっきりと覚えていないけれど、「読んだ」ということとその時の「感動」を忘れられない本に出会えることがあります。
この「サヨナライツカ」もそのひとつでした(ちなみに映画バージョンは見ておりません)。内容は、まあ、「愛の本だな」という感じでしたが、、、この本に出てくる、とある詩にあまりにも酔いしれて、Evernoteにメモっちゃいました。
全文は書きませんが、こんな内容です。
人間は死ぬとき、
愛されたことを思い出すヒトと、
愛したことを思い出すヒトにわかれる。
私はきっと◯◯◯◯
引用:辻仁成 著 サヨナライツカ より
◯◯◯◯のところは、小説を読んでのお楽しみ。
さあ、みなさんはどっちなんでしょうか?
愛したのか? 愛されたのか? どちらを思い出すんでしょう。
サヨナライツカ
日本語の別れの言葉である「さようなら サヨナラ」は、「左様であるならば」の略だそうです。「あなたが別れるという気持ちであるならば、しょうがありませんね」という意味合いです。
今生の別れ、とでも言うのでしょうか。ここで最後という状況に対峙する人々の美しき諦念の気持ちが感じられます。
この言葉があるからこそ、ではないでしょうけれど、日本人って「またね」と言っても、どこかに諦念の気持ちがあるような、そんな感じがします。「切なさ」に対する感受性が強いのかしら?
さて、この小説。「叶わぬ恋と知りながら」というところがポイントです。そう知っていながらも、惹かれ合い、のめり込んでしまう二人、なんです。さながら「左様であるならばしょうがない」状態。
二人の気持ちは、小説のタイトルそのものです。「イツカサヨナラ」ではなく、「サヨナライツカ」なのです。
別れはやってくる。いつかわからないけれど。
切ない。そして美しき諦念ではありませんか。
舞台は灼熱のバンコク。暑くなるこれからの時期に絶賛おすすめ本です!
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