車が故障し、人里離れた町に取り残された男。通りかかった修理工に助けられるが修理代を払えず、支払いの代わりに、廃墟となったテーマパーク「ウィリーズ・ワンダーランド」の清掃員として一晩だけ働くことに。
しかしパークには暗い過去があり、かつて子どもたちに大人気だった動物キャラクターのロボットたちは恐ろしい殺人鬼と化していた。園内に閉じ込められた男は、容赦なく襲い来るロボットたちと死闘を繰り広げる。
引用:映画.com 作品紹介ページ より
行政書士合格に向けて勉強中です!勉強の合間の楽しみは読書か映画!
てことで、またまた私の大好きな「90分程度のちょうどいい映画」をアマゾンプライムビデオにて鑑賞(=88分)。
原題はそのまま「Willy's Wonderland」なり。
途中からドラマを見るときの違和感
テレビドラマを基本的に見ることが少なくなったのですが、たまに子供が見ているのをちょこっとだけ途中から見たりします。
そうすると、当然のことながら、出演している人間たちのバックグランドも登場人物の相関図も全くわからないので、ストーリーが入ってこないw
男女で痴話喧嘩したりしていても、
なんで喧嘩しとん? 前にどんなことがあったんや
と当然疑問だらけなのですが、ここでまた、全く知らない初登場の男が出てきて、喧嘩している女性を奪っていったりしたら、さらに???な状態になります。
昔、中島らもさんだったような気がするのですが、
「A 対 B」というタイトルの怪獣映画を見ていたら、ラスト5分で「 C 」という怪獣が登場して、AとBをやっつけて終わって唖然とした
というシュール体験をエッセイで紹介していたのですが、それと似た感覚です。
登場人物の背景、相関性、性格がわかるまで、落ち着かないんですよ。これはたぶん、私達は集団を見ると、その関係性を見抜こうとする特性があるからなんだろうな、と思います。
自ら入り込んでしまったという落ち度
さて、本作。
ホラー映画にありがちな
車が故障して、しょうがなく寄ることになった場所でひと悶着あって、恐怖のどん底に陥る羽目に!
っていう王道パターンが序盤に出てきます。
とある事象が自分のミスから発生して、それをきっかけに非日常への扉が開くのです。
王道パターンでありますが、この瞬間をホラー映画ファンは待ち望んでいるわけです。
先日見たこの映画もそうでした。
でもたまに思うんですよね。
主人公たちに落ち度があって、そのせいで恐怖シーンが始まっちゃうけれど、主人公たちのミスにつけ込んで攻めてくる、みたいなディフェンシブな存在でいいのだろうか、悪霊どもよ、と。
ホラー映画を見るたびに、「日常生活において、迂闊なミスをしないでおこう」と思っちゃう私がいますw
王道から外れるためのニコラス・ケイジ
この王道に遭遇してから、ファンは「どう王道から外れるのか?」を期待するわけですね。主人公があのニコラス・ケイジなだけに、「これは期待できるな」と、ほくそ笑むわけですよ。
そういえば、前回見た「黄龍の村」は全く予想できない角度から外れていったな
と思い出しながら、ウイスキーをロックであおって、葉巻をふかしてもいいぐらいのワクワク感でソファに身を沈めるのです。
はいはい、ニコラス・ケイジきたー。
容赦なく襲い来るロボットってやつきたー。
怖いぜ、怖いぜ、、、
やられちゃう、、ぜ、、、あれ?
ん?
ニコラス・ケイジ、何してるんや?
もうね、まるで「途中から見たドラマ」ですよ!
もしくは怪獣C!
ニコラス・ケイジをまったく掴むことができない。
「おまえ誰やねん状態」を解消しようにも、始めから終わりまで掴みどころのないおっちゃんであり、シュールで浮いた存在なのです。
舞台となるテーマパークがいかに呪われた場所になったのか、という重要なバックグラウンドなんてどうでもよくなるぐらいシュール。
でも、なんだろ? 嫌いじゃないこの感覚。
なんとでも解釈はできるけれど
映画を見終わって、ニコラス・ケイジの演じた役ってなんだったんだろう? って反芻するのですが、無理w
掴んだところで、それを知ったところで、何になるんだよベイベー。ってことなのでしょうか? それさえも考えることが面倒になって、どうでもよくなります。
ただ、こう思えばいいのかな、と思えるのは、いわゆる「無敵の人」。
なにかあってもノーダメな感覚が、まさに無敵の人なんですね。
まー、いろいろ考えるよりも、
- ニコラス・ケイジのようにビールでも飲んで、
- ニコラス・ケイジのようにPOPなTシャツでも着て、
- ニコラス・ケイジのように丁寧に部屋の掃除をして
- ニコラス・ケイジのようにピンボールに燃えて
- 好きなように生きましょうよ、
ってことをこの映画は言いたんだろうなーと思ったり思わなかったりして。
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